城之内早苗 – おニャン子クラブ唯一の演歌歌手として大ヒットを記録

17.城之内早苗

おニャン子クラブで演歌と言えば城之内早苗

おニャン子クラブの中で演歌路線を貫いた唯一の存在、それが城之内早苗(じょうのうち さなえ)です。1986年にリリースされたデビュー曲「あじさい橋」は、演歌史上初めてオリコン総合シングルチャートで初登場1位を獲得するという快挙を成し遂げました。

アイドルグループの一員でありながら、本格的な演歌歌手としての道を切り開いた彼女の軌跡は、80年代アイドル史においても特異な存在として今も語り継がれています。

プロフィール

  • 本名: 城之内早苗
  • 生年月日: 1968年5月17日
  • 出身地: 茨城県神栖市(旧・鹿島郡神栖村)
  • 血液型: O型
  • 会員番号: おニャン子クラブ17番
  • デビュー: 1986年6月「あじさい橋」でソロデビュー
  • 趣味: 民謡、三味線

おニャン子クラブ入りまでの経緯

幼少期から培われた歌の素養

城之内早苗さんは茨城県神栖市で父、母、4歳年下の弟という家族構成のもとで育ちました。父親は地元で会社を経営しており、幼い頃から民謡と三味線に親しむ環境で成長します。

中学2年生の時に「全日本歌謡選手権」に出場したことが、彼女の歌手人生における大きな転機となりました。当初から演歌歌手を目指していた城之内さんですが、スタッフからの勧めもあり、1984年に「神栖… アイドルを探せ!」というオーディションに出場します。

おニャン子クラブ会員番号17番として

1985年5月、フジテレビの人気番組「夕やけニャンニャン」内のオーディションで105点を獲得して合格。会員番号17番としておニャン子クラブのメンバーとなります。

明治大学付属中野高校夜間部に通いながら、アイドル活動を続ける多忙な日々を送ることになります。しかし、城之内さんの心の中には常に「演歌歌手になりたい」という強い想いがありました。

「あじさい橋」の大ヒット – 演歌史上初の快挙

1986年6月、運命のソロデビュー

おニャン子クラブ在籍中の1986年6月、城之内早苗はCBSソニーから「あじさい橋」でソロデビューを果たします。この楽曲は、のちに美空ひばりの名曲「川の流れのように」を手がけることになる秋元康(作詞)と見岳章(作曲)という黄金コンビによって生み出されました。

「あじさい橋」は、演歌としては史上初となるオリコン総合シングルチャート初登場1位という偉業を達成。これはアイドルと演歌という、一見相反するジャンルの融合が見事に成功した証でもありました。

楽曲の特徴と歌詞の世界

梅雨の季節、あじさいの咲く橋で別れを迎える男女の切ない物語を描いた「あじさい橋」。「渡れる 渡れない 二人が名付けた橋」という印象的なフレーズが、聴く者の心に深く残ります。

カップリング曲は「おニャン子クラブのあぶな〜い捕物帳」で、こちらは城之内早苗 with おニャン子クラブ名義。テレビドラマ『月曜ドラマランド・おニャン子捕物帳 謎の村雨城』の挿入歌として使用され、両A面のような扱いを受けました。

おニャン子クラブ解散後のキャリア

演歌歌手としての本格的な歩み

1987年のおニャン子クラブ解散後も、城之内早苗は演歌歌手として活動を継続。これまでにシングル29枚をリリースし、数々の受賞歴を誇ります。

主な受賞歴:

  • 日本有線大賞・有線音楽優秀賞(演歌)(1994年「酔わせてよ今夜だけ」)
  • 日本作詩家協会50周年記念大賞(2015年「おちょこ鶴」)
  • 日本作曲家協会音楽祭ソングコンテストグランプリ(2015年「おちょこ鶴」)
  • 日本レコード大賞・日本作曲家協会選奨(2016年)

マルチな活動 – ラジオパーソナリティ、女優、ものまねタレント

演歌歌手としての活動に加えて、城之内早苗は多方面で才能を発揮しています。

ラジオパーソナリティとして、1995年7月から長年にわたって「城之内早苗のハートフル・ダイアリー」を担当。茨城放送、和歌山放送、岐阜放送など複数の地方局で放送され、リスナーに親しまれています。

女優としても活躍し、1994年にはナショナル劇場『江戸を斬る(第8部)』にゆき役で出演。また、フジテレビ『ものまね王座決定戦』にレギュラー出演し、優勝経験もあるなど、ものまねタレントとしての一面も見せました。

文化放送『走れ!歌謡曲』木曜日(水曜深夜)のパーソナリティも務めるなど、幅広いメディア展開を行っています。

城之内邦雄との意外な血縁関係

城之内早苗さんには、プロ野球ファンなら誰もが知る有名な親戚がいます。それが元読売巨人軍の投手、城之内邦雄(じょうのうち くにお)です。

「エースのジョー」として活躍したプロ野球選手

城之内邦雄氏は1940年2月3日、千葉県佐原市(現:香取市)出身の元プロ野球選手。早苗さんの大叔父(祖父の弟)にあたる人物です。

1962年に読売巨人軍に入団し、ルーキーイヤーながら開幕投手に抜擢され、いきなり24勝を挙げて新人王を獲得。「エースのジョー」の愛称で親しまれ、巨人V9時代を支えた名投手として知られています。

入団5年で100勝を達成するなど、通算141勝をマークした実力派投手でした。上体をそらし気味に首を振りながら荒々しく投げ込むダイナミックなフォームと、威力ある速球・シュートが武器でした。

1968年には大洋戦でノーヒットノーランを達成するなど、数々の記録を残しています。

城之内家のアスリート・芸能DNAの系譜

茨城・千葉の城之内家から、プロ野球選手と演歌歌手という異なる分野のスターが誕生したことは、興味深い事実です。邦雄氏の野球への情熱と早苗さんの演歌への情熱は、共通するプロフェッショナリズムを感じさせます。

2024年から2025年 – 城之内早苗の現在

演歌歌手として現役で活躍

2024年10月には、高齢者・介護向けオンラインレクリエーションサービス「感動レクオンラインコンサート」に初登場。デビュー曲「あじさい橋」の令和バージョンを披露し、視聴者を魅了しました。

現在も個人事務所に所属し、演歌歌手として精力的に活動を継続。ラジオ番組のパーソナリティも務めながら、全国各地でコンサート活動を行っています。

おニャン子クラブ解散から30年以上経った今も

おニャン子クラブが解散して30年以上が経過した今でも、城之内早苗は「おニャン子クラブで演歌を歌った人」として記憶され続けています。アイドルから演歌歌手へという独自の道を歩み続けた彼女のキャリアは、多くの後進にとっても貴重な参考例となっています。

まとめ – 城之内早苗が残した功績

城之内早苗は、おニャン子クラブという80年代を代表するアイドルグループの中で、唯一演歌路線に進出した特異な存在でした。

「あじさい橋」での演歌史上初の初登場1位という記録は、アイドルと演歌の垣根を越えた画期的な出来事として、今も語り継がれています。

おニャン子クラブ解散後も演歌歌手として40年近いキャリアを積み重ね、シングル29枚のリリース、数々の賞の受賞、ラジオパーソナリティとしての長年の活動など、多方面での実績を誇ります。

そして、読売巨人軍のエース投手だった城之内邦雄氏が大叔父であるという血縁関係も、城之内家の豊かな才能を物語るエピソードとして興味深いものがあります。

おニャン子クラブから演歌界へ―異色のキャリアを歩んだ城之内早苗の挑戦は、ジャンルにとらわれない自分らしい生き方を示す素晴らしい例と言えるでしょう。

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